日本共産党綱領/綱領第1章解説

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一、戦前の日本社会と日本共産党

引用元 https://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/Koryo/

綱領の第1章は戦前の日本共産党です。じつは日本共産党は戦前からある政党なんですね。ご存知でしたか?あと、現在存在する政党で最も古いのも日本共産党なんです。これは豆知識ですね。でも、日本共産党が一番最初に作られた政党というわけではないのです。いろいろあってもっと古い政党が解散してしまったのですね。では、そんな戦前の日本共産党はどんな政党だったのでしょうか?見ていきましょう。

(一)日本共産党は、わが国の進歩と変革の伝統を受けつぎ、日本と世界の人民の解放闘争の高まりのなかで、一九二二年七月一五日、科学的社会主義を理論的な基礎とする政党として、創立された。

 当時の日本は、世界の主要な独占資本主義国の一つになってはいたが、国を統治する全権限を天皇が握る専制政治(絶対主義的天皇制)がしかれ、国民から権利と自由を奪うとともに、農村では重い小作料で耕作農民をしめつける半封建的な地主制度が支配し、独占資本主義も労働者の無権利と過酷な搾取を特徴としていた。この体制のもと、日本は、アジアで唯一の帝国主義国として、アジア諸国にたいする侵略と戦争の道を進んでいた。

 党は、この状況を打破して、まず平和で民主的な日本をつくりあげる民主主義革命を実現することを当面の任務とし、ついで社会主義革命に進むという方針のもとに活動した。

日本共産党の創立は大正時代です。大正時代というと近代的で華やかな文化が発展した時代という感じがしますが、そんな時代にできています。ただ、創立の翌年に関東大震災が起こっており、歴史に試されている感があります。

ここに出てくるキーワードで一つ重要なのが「天皇」というキーワードです。今も天皇の制度は残っていますのでテレビとかでみることがありますが、当時の天皇と今の天皇は全然違います。今の天皇は「日本の象徴」、主権は国民が持っています。しかし当時は天皇が主権を持っていました。国民は「臣民」、家臣(家来)みたいなものだったわけです。

当時の共産党は、それを変えようとしていました。天皇主権ではなく国民主権の日本にしよう。それを目指して活動していたわけです。

共産党というと「共産主義社会を目指す」という感じの活動をしていたのかな?と思われがちですが、全然そんな印象の活動していないですね。いきなり社会主義や共産主義の社会にするのは飛躍がすぎる。まずは、民主主義を確立しようというところからスタートしたわけです。

(二)党は、日本国民を無権利状態においてきた天皇制の専制支配を倒し、主権在民、国民の自由と人権をかちとるためにたたかった。

 党は、半封建的な地主制度をなくし、土地を農民に解放するためにたたかった。

 党は、とりわけ過酷な搾取によって苦しめられていた労働者階級の生活の根本的な改善、すべての勤労者、知識人、女性、青年の権利と生活の向上のためにたたかった。

 党は、進歩的、民主的、革命的な文化の創造と普及のためにたたかった。

 党は、ロシア革命と中国革命にたいする日本帝国主義の干渉戦争、中国にたいする侵略戦争に反対し、世界とアジアの平和のためにたたかった。

 党は、日本帝国主義の植民地であった朝鮮、台湾の解放と、アジアの植民地・半植民地諸民族の完全独立を支持してたたかった。

当時の共産党の活動について箇条書きで簡単に書いてあります。この辺の詳しい話は当時の資料をまとめた歴史本が出ていますので、そちらを読んでいただければと思います。

当時の資料も全部が全部事細かに残っているわけではありません。というのは、当時の日本共産党は非合法の組織で、取り締まり対象だったからです。なぜ取り締まり対象となっていたかというと、天皇を批判する組織だったからですね。なんで天皇を批判したら取り締まられるのか?今では全然考えられませんが、当時はそういう時代だったのです。

当時の学校には天皇の写真が大切に保管されていましたが、学校が火事になったりすると、その写真を火事から守るために先生が命を落した、そんなエピソードが残っています。たかが写真と今の時代の人間はそう思ってしまいますが、そうではなかったのです。

だから、天皇を批判する共産党けしからん、ということで、治安維持法などをつくり、弾圧したのです。

ここに箇条書きになっている内容は今見れば、特筆すべきところはなさそうですが、当時は「女性のためにたたかう」というのも画期的なことだったようです。というのは当時の女性は政党に参加することができませんでした。政治は男のものというのが一般的な認識だったのですね。選挙権があったのも男性のみです。しかし、共産党では女性も一緒に活動していたことが記録されています。ジェンダー平等に関する考え方は当時と今とでは全然違いますが、社会や政治への関わり方について、性別によって差別されるべきではないという考えが当時の共産党にあったことが伺えます。

(三)日本帝国主義は、一九三一年、中国の東北部への侵略戦争を、一九三七年には中国への全面侵略戦争を開始して、第二次世界大戦に道を開く最初の侵略国家となった。一九四〇年、ヨーロッパにおけるドイツ、イタリアのファシズム国家と軍事同盟を結成し、一九四一年には、中国侵略の戦争をアジア・太平洋全域に拡大して、第二次世界大戦の推進者となった。

 帝国主義戦争と天皇制権力の暴圧によって、国民は苦難を強いられた。党の活動には重大な困難があり、つまずきも起こったが、多くの日本共産党員は、迫害や投獄に屈することなく、さまざまな裏切りともたたかい、党の旗を守って活動した。このたたかいで少なからぬ党員が弾圧のため生命を奪われた。

 他のすべての政党が侵略と戦争、反動の流れに合流するなかで、日本共産党が平和と民主主義の旗を掲げて不屈にたたかい続けたことは、日本の平和と民主主義の事業にとって不滅の意義をもった。

 侵略戦争は、二千万人をこえるアジア諸国民と三百万人をこえる日本国民の生命を奪った。この戦争のなかで、沖縄は地上戦の戦場となり、日本本土も全土にわたる空襲で多くの地方が焦土となった。一九四五年八月には、アメリカ軍によって広島、長崎に世界最初の原爆が投下され、その犠牲者は二十数万人にのぼり(同年末までの人数)、日本国民は、核兵器の惨害をその歴史に刻み込んだ被爆国民となった。

 ファシズムと軍国主義の日独伊三国同盟が世界的に敗退するなかで、一九四五年八月、日本帝国主義は敗北し、日本政府はポツダム宣言を受諾した。反ファッショ連合国によるこの宣言は、軍国主義の除去と民主主義の確立を基本的な内容としたもので、日本の国民が進むべき道は、平和で民主的な日本の実現にこそあることを示した。これは、党が不屈に掲げてきた方針が基本的に正しかったことを、証明したものであった。

「他のすべての政党が侵略と戦争、反動の流れに合流」とありますが、これが日本共産党が最も古い政党になった理由です。全部大政翼賛会に合流してしまったのです。

国際連盟脱退から敗戦への流れは学校の歴史の授業の中でも扱われるところでしょうから、ここでは詳しくは触れません。授業はそれなりに受けて、大まかな流れはつかんでおきましょう。日本が最後に宣戦布告をした国はアメリカです。ちなみに、2024年現在最後にアメリカに宣戦布告をした国は日本です(豆知識)。なぜ国土も人口も資源も多いアメリカ相手に勝てると思ったかは・・・なぜでしょうね?

ともかく、日本は1941年12月8日に真珠湾を攻撃します。年号は「真珠湾にい(1)く(9)用意(41)」と私は覚えさせられました。日付も覚えておきましょう。日本では降伏した8月15日の方は覚えられていますが、なぜか攻撃した日にちは忘れられがちです。

ここではサラッと書いてありますが、憲兵や特高警察が目を光らせている中での活動は並大抵のものではありませんでした。機関誌である赤旗(当時は「せっき」と言う名前でした)の発行も、新聞を作るのではなく、服を仕立てるときに使う用語を使って打ち合わせをし、それとわからないような形で進められたと伝えられています。


戦争が終わり、日本国憲法の日本が誕生しました。戦後の日本国民はこの憲法を受け入れ、現在に至っています。

日本国憲法の柱である国民主権、基本的人権の尊重、平和主義。これは戦前の日本共産党が求めていたものであり、日本共産党の目指していた社会が正しかったということを証明することにもなりました。


さて、日本共産党は国民の苦難軽減を立党の精神としているわけですが、この精神は党設立から100年経った今でも引き継がれています。政党というと、議員がいて、議会で活動するものだと思われているかもしれませんが、日本共産党の活動場所は議会だけではありません。

生活に困って近くの警察に行くと、日本共産党の事務所を紹介される、というような話が以前某雑誌に載ったことがありますが、生活相談や法律相談などを事務所で行ったりして、困った人の力になっています。

リーマンショックで多くの人が職を失った時も、共産党の事務所に多くの人が相談に来ました。東日本大震災の時は募金やボランティアの派遣。新型コロナウイルス蔓延のときには生活に困った人の助けになろうと、各団体と一緒にフードバンクを実施。能登半島地震でも、地元の共産党組織と連携して救援活動を今も続けています。

いろいろなところで国民のために活動しているのが、日本共産党なのです。